升田幸三の陣屋事件について

坂口安吾



 銀行ギャングだの日共テロだのと陰鬱な時世に、近頃めずらしいユーモラスな珍事さ。事の起りがバカバカしいところへもってきて、天下の三大新聞が右往左往とくる。新聞紙面には影も音も現れないが、それだけに音を殺し影を隠した裏面の暗躍工作のヒシメキが陰にこもっている。
 しかしながら政界官界などの裏面工作が陰にこもっているのに比べると、こっちの陰にこもり方はザルで水をすくうように尻がぬけている。音を殺し影を隠しているから、いかにも凄そうであるが、スッパぬきが商売の新聞社同士が当事者だから、かえってスッパぬくわけに参らず、つまりナメクジとガマとヘビのように自然に三すくみの無言劇というだけの話である。このナメクジとガマとヘビは各々深刻奇怪な工夫に富んでおり、進取の気象にも富んでいるが、所詮哺乳類や鳥類の工夫の域にすら達することができないのである。

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 将棋道の一極意書に「落手は落手を生む」とあるそうだが、この事件もその極意にかなっていたようだ。升田がまず落手をやった。すると将棋レンメイ理事会というのが輪に輪をかけ「命とり」の大悪手をやってしまった。命とり、なぞとはエンギでもない、と怒りたもうな。私はおよそ不穏な考えをもたないのだが、これも将棋の述語のうちだから、我慢して先を読んで下さいまし。
 私が先日上京して旅館でお酒をのんでいたら、部屋の外で、
「ゴメン下サイマシ」
 という非常にやさしい男の訪う声がした。そしてニコヤカに現れたるは升田八段でありました。ガラガラ蛇の首ッ玉にウッと噛みつきそうな顔をしながら、まったく奇手を行う男さ。
 大砕*1して大言壮語する。それも結構である腕自慢の勝負師だもの、自恃の念たくましく、大ボラ吹くのが悪かろう道理はない。
 陣屋旅館の玄関で四十分間訪いを通じても現れる女中がいないので怒って別の旅館へ行き、ついに対局を拒否したと云う。至らない男ではあるが、怒る、ということは罪ではないさ。いかにも至らざるガラッ八の所業ではあるが、そのムキダシの粗野なところは彼の無邪気な性格でもある。
 升田将棋もそうであろう。非常に精妙な構成と鋭さと理に富みながら、軽率である。彼が至高の天分を持ちながら脆くも敗れるのは、その至らざるガラッ八の性格によってではないか。
 棋士にとっては、性格も力量のうちさ。長所ともなれば、短所ともなる。性格が棋力をみがく力ともなれば、限定する力ともなるという宿命的なものは、棋士諸君が身にしみてお分りであろう。
 升田の棋譜に現れる大ポカと同じものが、ここに現れただけではないか。人々は彼の品性が至らず、と云うが、そうではないよ。彼の棋力が至らないのだ。彼が勝負に負けるのは、これらのせいだ。
 怒ることは良いことではないかも知れんが、怒らないことだって決して特に良いことでもないし、品性の高さを意味しない。
 表面的に紳士のタシナミらしきものを身につけても、それと品性とは何らの関係もないことさね。棋士の社会的地位が高まったから、品性も表向き紳士らしいものに高まるべきものだと考えているのは、棋士の劣等感というものだ。
 我々の仕事もそうだが、棋士も個性を生かさなければならない職業である。さればこそ個性という宿命的なものの強さも弱さも悲しさも身にしみて切実な芸や技の問題となる御身らではありませんか。
 升田の今回の落手は一般世間的にはバカバカしくて傲慢失礼な所業かも知れんが、その性格ゆえにその棋力も存する悲しいまでの切実さを知る御身らが、これを品性の低さなどと片づけて、それで平気でいられるのですか。
 むろん升田がこんな小さなことで逆上的に怒ってしまった心の奥底には、彼が朝日の社員であることや、王将戦が毎日の企劃であることや、彼が木村を指し込んだことや、その他の複雑なものが在ったことは分りきっている。しかしながら、それらの全てをひッくるめて、これが彼の性格なのだ。両新聞のアツレキが負担となっていたにしても、彼が怒り逆上したところまでは、彼の性格によるものなのだ。両新聞のアツレキに対する彼の身の処し方も彼の性格によるものであろう。
 彼の今回の落手には紳士のタシナミが影もなく徹底的にガラッ八的ではあるが、彼の棋風も棋力もそこに発しそこに限定されている切実さを痛感すれば、御身らも身につまされやしないか。至らぬ奴だ。傲慢無礼な奴だ。けれども、それだから、奴めは強いし、また、弱くもある。オレが奴めに負けるのも、奴めに勝つのも、そのせいだ。憎めやしねえよ、と呟きながら。
 旅館の待遇を怒ったことも、旅館の待遇にことよせて年来のワダカマリがバクハツしたことも、罪なんてものとは話が違うのさ。そして、そのために対局を拒否したということも、奴めがそのように至らぬバカ者である、というにすぎんじゃないか。
 だから、奴めが対局を拒否した以上は、規則通り奴めが不戦負になるのが至当であるにきまったものだ。そして、升田不戦負の理由が発表され、それを読んだ世間の人々が、升田という奴はなんて傲慢な、至らぬ野郎だろうと考えて、奴めが大いに評判を悪くする。──当然そういう結果に終って然るべき性質の単純な事件であったに過ぎんのだ。
 それに附随して起る結末としては、升田が個人的に木村に無礼を詫び、またファンに謝意を表する。もっとも、強いて表するには及ばないが、彼はたぶん表したであろう。逆上さえおさまれば、彼は常識的な男だから。
 将棋レンメイは勝敗を判定すれば足りるのだ。それ以外に裁く権力も理由も見出せないではないか。升田を裁くものがあるとすれば、それは世間の良識である。そして世間の良識は升田の対局拒否を無礼不遜と見るムキが多く、彼はおのずから謝意を表せざるを得なかったにきまっていたであろう。

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 一年間の出場停止とはベラボーな話さ。一日の出場停止ですら、おかしいね。こういうベラボーな処分案をだしたのが、毎日新聞かどうか、それは拙者には分らんが、主催者たる毎日がその処分に同意を示したとは推察しうるし、天下の大新聞がこの処分の不当さを一時的にしても忘れているという升田に輪をかけた逆上ぶりをやらかすというのも、つまりは彼らがナメクジやガマやヘビにすぎなくて、哺乳類や鳥類にも至らぬガサツ者の故の御愛嬌と云うべきであろう。これも、むしろ憎めない。
 毎日の立場も気の毒である。彼は自分で育てた名人戦を朝日にさらわれてしまった。
 しかし、さらわれたものは仕方ないさ。そのとき毎日のほどこす手段としては、名人戦を取り返すか、あきらめるか、二ツに一ツしかなかった筈である。
 しかるに、王将戦というものを作って、これを名人戦と同格的なものにしようとした。これが根本的な落手だね。序盤に於て決定的な読み違いをやらかしていたのである。
 どこの国のスポーツやゲームを見たって、チャンピオンシップを争うのは公認の一ツあるのみで、その他のノンタイトルマッチは負けてもタイトルに関係しないのが常識にきまっているではありませんか。
 ところが王将戦がはじまると、名人が王将戦に指しこまれた場合に名人位はどうなるか。当然退位すべきであろう、なぞという放送がいずこからともなく起りはじめた。
 深刻奇怪に工夫に富んではいるけれども、こういうところがナメクジやガマやヘビの至らざるところなのである。全然逆上的に対立的で、やたらに対立感に目がくらんでいるばかり、要するに工夫もナメクジなみさ。ナメクジなみでない工夫とは何ぞや? それは先刻言った通り、名人戦を取り返すか、二級品で泣き寝入りか、いずれか一ツしかないにきまっているのさ。
 しかし、もう一ツの方法として、将棋の方で奪われた名人戦を碁の方で生かす工夫は然るべきであった。毎日が持っている本因坊戦というものは、一歩前進することによって最も容易に名人戦に移行しうる有利な態勢をととのえている。将棋の名人戦を奪われたイタデの深さが分れば、万難を排しても碁の名人戦を持つことの有利が当然理解される筈である。鳥類ぐらいまでは、そう理解できる筈だが、ナメクジ級になると、もう分らないのだな。そしてナメクジなみには深刻な工夫に富み進取の気性に富んでいるのは見てやらなければならないが、今回のバカ騒ぎの根は実はナメクジの工夫の中に本来的に内在していたのである。
 何十年前からナメクジとガマとヘビが碁と将棋をめぐって、分裂だ、合同だ、何々戦だと、逆上的に、また根気よく編みだす工夫の数々というものは涙ぐましくもあったが、どうも、なさけなくもありましたな。
 今回の場合は毎日新聞の指し過ぎであったようだが、今回がそうだというだけのことで、このように三大新聞が盲めっぽうにナメクジ競争をくり返している限りは、次には誰がポカをやらかすか、とても見当のつくものではない。今回の場合のみに限って善悪を断じ、一紙を難ずるのは当らないであろう。
 しかし、三大紙に無限の如くにナメクジ競争をくり返させるのは、その根が棋士たちにあるからでもある。碁将棋は三大紙にとっては紙面の一部分の問題にすぎないが、棋士たちにとっては生活全部の問題なのだから、もっと真剣な自分の声を持つのが当然であろうに、まるで自分の声をもたない人形のようにしか考えられません。

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 私は三月四日の棋士総会を傍聴したが、事の本質を自分なりに真剣に考えて、率直に自分の言葉を言い切ったのは高柳八段がただ一人であったように思う。彼の意見が正しかった、ということではない。彼だけが自分の頭でマジメに考えて、自分の言葉をのべたというだけの意味である。
 関西側がかねて用意の決議書を朗読したときに、高柳八段がこう云った。
「事はなるべく小さくするように努力しなければいけない。しかるに、決議書という形は圧力を加えるもので、まとまる話をこわすような怖れがある。関西の決議書の内容は升田の代弁と見て然るべき内容だから、それは升田に言わしめるのが穏当である。したがって、升田が発言する場所をつくッてやることが第一だ」
 こういう意味の発言だった。ともかくも、批判的な発言は、この一ツがあったのみである。
 この総会は、さきに理事会が独断で決定した「一年間出場停止」という升田処分が至当であるか不当であるかを論議すべきものであったろう。世間の関心や注目がそこにあるのだから、棋士総会がそれに対して自分の意見を定める責任があるのは当然であった。
 してみれば、総会の批判は升田と同時に理事たちにも差し向けられるものであるから、升田も理事たちも被告的な立場で喚問されるのが当然であろう。
 ところが、辞職した筈の理事の一人が司会し、同じく辞職した筈の会長から、木村名人へ白紙一任という動議がだされている始末であるのに、升田は出席して発言することも許されていない。
 向う気の強い升田が出席すると荒れる怖れがあるという心配は重々分るけれども、争うのは鼻ッ柱ではなくて「理」である、ということを考えなければいけませんよ。
 理につきさえすればお天道さまはお見通しさ。即ち、世間が見ていますよ。三大新聞が陰にこもって裏でひしめく手がかりすらもないであろう。
 司会者も会長も会員たちも、発言すれば必ずのように円満なる解決ということを念仏のように唱えるけれども、ただ念仏を唱えても、どうなるものでもない。
 朝日が升田を抱え、毎日が大山を抱え、読売が塚田を抱えているのがゴタゴタの元だというように見られているが、私はそうは思わない。
 なぜなら、いくら三大紙がヤキモキしても、棋士自信の力によってしか名人にはなれないのだから。
 だから名人戦(朝日)でともかく木村を破ったのは読売の塚田一人であり、王将戦(毎日)で木村を指しこんだのは朝日の升田一人であり、九段戦(読売)で九段位を占めたのは毎日の大山だという凡そ三紙の思う壺がまんまと外れた結果だけしか現れなくとも、どうすることもできやしない。
 このような事実というものは先ず動かすべからざる理の第一のものであって、いくら三大紙がヤキモキしても、かように厳然たる理そのものには乗ずる隙がない。
 三大紙の乗ずる隙となり暗躍の元となるものは棋士の側に孕まれているのだ。東西の感情的な対立がそれである。現に分裂してしまった碁に於ても、将棋に於ても、この対立感情がゴタゴタの唯一の根だ。
 この対立感情は東西のどちらが激しいか、それは五分々々さ。関西側が好戦的のように見られ易いが、将棋レンメイの役員が主として関東側に占められているから、野党的立場の関西側が自然攻勢にでるだけの話であろう。
 個人技を争う碁将棋に於て東西が感情的に徒党をくむというのが何よりも余計な邪魔物なのである。

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 私はどの新聞の味方でもないが、将棋に関する限り、名人戦を持っている朝日がどこよりも有利であろうと考えている。なぜなら、これがタイトルマッチであるということは万人の認めるところだからである。
 読売の九段戦はもともとノンタイトルマッチであることを自認しているようなアキラメがほの見えるからこれは問題外であるが、王将戦はもしも誰かが名人を指しこんだらそのとき名人は退位すべきか、というような放送によってタイトルマッチへの同格化を狙っていた。苦心の程は察するに余りあるが、タイトルマッチは一ツしかないという当然きわまる常識がこの放送でくつがえる筈はなかったのである。
 指しこまれても名人戦に負けないうちは名人はやめないと言明した木村の態度も当然であった。
 しかるに名人戦に具わる断乎たるタイトルマッチの威厳や正理を、升田論理もしくは升田煩悶というものが最も強力にくつがえしているのだから、ナメクジ競争はフンキュウをきわめてしまうのである。
 そういう理窟はヌキにしても、升田煩悶というものは、戦国時代をホーフツさせる四百年前の野武士の感傷的煩悶で、升田の人柄がチャチなものに見られ易いのは、何よりもこういうところによるのである。名人戦はタイトルマッチであり、王将戦はノンタイトルマッチ。こんな草将棋で木村を指しこんだって名人戦でタイトルをとらなきゃオレは浮かばれん、アッハッハ、というような豪快な大笑いは近代人たる升田が真ッ先にたてて然るべき立場であり、また一見してその豪放な人柄でありながら、実はそうではなかったところに、この事件のバカらしさ、おかしさ、そして救いもまるのである。
 つまり、この事件は地下に隠されている根本的な発足から毎日のネジも升田のネジも狂っていたのだ。その狂ったネヂをめぐってさらに三大新聞が右往左往というのだから、私はこれを当代の珍品にして、またたくまざる喜劇として、なんの悪意もなく、ほほえましく見過し、そして元のサヤへ円満におさまったらメデタシ/\と他意なく拍手カッサイしてやるのが何よりだろうと思うのである。
 毎日新聞にしたって、元々ネジの狂った王将戦がこれぐらい宣伝になれば瞑すべしですよ。それもみんなネジの狂っていた升田煩悶のタマモノである。升田が木村を指しこんだにしても、大時代的な升田煩悶というネジの狂った伴奏がなければ所詮二流のノンタイトルマッチにすぎなかったのである。むしろ今までの経過では、王将戦の名が売れた理由によって、最大の被害者は朝日であったかも知れん。
 しかし、升田のネジが狂っていても、それは彼の屁理窟のネジだけの話で、彼の将棋はたしかに当代の逸品さ。そればかりではなく、升田はともかくネジが狂うだけの頭の機械を持ち合わせているのがマシなのだ。
 棋士総会を見物すれば一目瞭然だが、狂うにも、狂わんにも、頭にネジのついてる棋士が居やしないのだ。ハッキリと自分だけの考えや、自分だけの批判を述べることができたのは高柳八段ただ一人ではないか。
 次にともかく自分の言葉らしいものを発言したのは京須七段だった。彼は言った。
「升田八段は名人に勝とうと思えばいつでも勝てるという意味のことを云っているが、このような侮辱をうけている当の名人が解決に当るのはどうかと思う」
 これも一応理窟である。しかし、酒の上の大言壮語などは取るにも足らんことで、要は指しこんだか、指しこまないか、その事実が物を云う。そして事実に於て升田が木村を指しこんでいるという実績よりも、酒の上の大言壮語の方を悪意的に主として取りあげているところに、京須七段のみならず、関東方の論理が感情的に狂っているのを指摘できるようである。関西方の決議書も徒党的で感情的なニュアンスが強すぎたが、関東方の論理もこれに劣らず徒党的感情的にゆがんでしまっているのだ。
 その他の棋士たちの発言内容は、これはもう言わぬが花である。
 辞職した理事が司会し、辞職した会長が「名人に白紙一任」の動議をだし、否、頭からそれにきめこんで、棋士たちの発言に対しては黙って聞きおく、というだけで、うけつけない。だだもう予定の白紙一任へ急ぐだけで、その異様な議事進行を意外とする棋士もいないのだね。
 しかし、棋士諸君よ。怒りたもうな。このフンキュウの元が諸君のどこにあるか、それを諸君が知らなければ、このフンキュウは無限にくりかえされるばかりだ。そして諸君が後生大事な念仏として捧持している「円満なる解決」どころか、愚劣なる分裂騒動をくり返すにすぎないのである。

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 要するに、升田の落手というものは、規定にある通り、不戦負の判定だけがレンメイの権限内の適当な処置であったであろう。升田の傲慢無礼なところは、世間が批判すべき性質のものだ。そして、それだけですめば、世間の批判をうける升田が困るだけで、小さな一場の茶番ですむべきものであった。
 しかし、今からでもおそくはないよ。全然おそいということはない。ナメクジとガマとヘビが乗りうつッて茶番は幾廻りも大きくなってしまったけれども、ナメクジとガマとヘビも諸君に比べれば深刻な工夫に富み策に富んでいるけれども、所詮鳥類以下の無邪気さであり、総計して抱腹絶倒には価するが、何ら社会に害毒を流す性質のものではなかった。こういう茶番が無かったよりも、有った方が面白かったという程度に無邪気なものであった。
 諸君も慌てふためいたが、諸君に輪をかけて、天下のナメクジとガマとヘビが慌てたのだから仕方がないさ。
 これを要するに、今回は毎日新聞の指しすぎでありました。私はそう思う。しかし、次にはどのナメクジが指し過ぎをやらかすか分りやしないよ。だからクヨクヨすることはないね。
 しかし、これを機会に、東西の対立感情だけは捨てさることが急務であろう。そのためには、孤独にして、ともかく己れの言葉を発しうる高柳八段を、差し当り棋士の模範的態度つまりこの際の手筋と致すべきではありませんかな。
(三月六日未明記)



底本:坂口安吾全集 15(1999 筑摩書房)
(初出 未発表稿)
整形の仕方は青空文庫を参考にしています。
*1 大酔か


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