目次

将棋の話大正九年八月
碁より将棋の方が好きだ大正十年九月
将棋と機心大正十二年二月
勝負事と心境大正十三年六月
大正棋戦一瞥記大正十五年十月五日
将棋と麻雀昭和二年一月九日
東西八段争覇戦を観る昭和二年一月十九日、二十日
木村木見対局観戦総評昭和二年二月三日
二月雑記 将棋隆盛昭和二年二月二十三日、二十四日
将棋讃昭和二年五月
秋宵雑記 露店の詰将棋 将棋会館昭和三年十月十八日、十九日、二十一日
将棋と人生昭和四年一月
将棋のこと昭和四年六月
自分と各種ゲーム 将棋昭和五年五月
菊池寛氏縦横談 将棋で人物をねる昭和六年一月
将棋の話昭和九年一月十五日
駒に教へられる成功の道昭和九年七月
将棋昭和十年七月
指し過ぎ無理筋昭和十一年一月
将棋界の分裂昭和十一年三月
(将棋界合同)昭和十一年八月
坂田氏の棋力昭和十二年三月
倉島君の出征昭和十三年七月
坂田三吉氏のこと昭和十三年七月
(坂田三吉名人戦参加)昭和十三年七月
(坂田三吉名人戦経過)昭和十三年八月
(将棋大成会の企)昭和十四年四月
坂田三吉氏昭和十四年八月
将棋名人戦昭和十四年十月
坂田三吉昭和十五年二月
(坂田三吉隠退)昭和十五年十月



 将棋の話

 凡そ、あらゆる勝負事の中で、将棋ほど、テキパキして居るものはないだらう。勝は飽くまで勝である。負は飽くまで負である。敵将を擒縛して後止むのであるから、何等の妥協あるなしである。
 然も、敵味方各々二十の馬子、盤面は八十一劃、而も其処に古今斯道の天才が、極め尽し得ざる玄妙不思議の変化があるのである
 兎に角、自分は将棋が好きである。一日に数回は盤に向ふ、。むろん、相手がない時が多い。一人で古今の名局を指して見るのである。気を換へるために、退屈紛ぎらしに、これほど適当なものはない。
 我々の周囲でも、将棋は盛んである。今年になつてからも、文士象戯会が三四度も催された。幸田露伴先生の事は、あやに畏し。自称天狗馬場孤蝶先生を初め、泉鏡花、志賀直哉、里見怐A久米正雄、水上瀧太郎、中村吉蔵、田中絢、小川未明、故石野泡鳴、西宮藤朝、久米秀治、中村武羅夫、佐佐木茂索、瀧井折柴、村松梢風の諸氏、画家では松山省三、岡田三郎助、平岡權八老、鰭崎英朋氏等、いづれも同好の人である。
 馬場孤蝶先生には「将棋の話」なる著書あり。将棋学の権威であるかも知れないが、実力余りに貧弱、定跡の二三手は知つて居るけれども、その陣容のもろきこと、豈豆腐と撰まんやである。かう申すと、先生の自尊心を傷けて、甚だすまないが、義理にも強いとは申上げられない。泉、里見、久米、田中等の諸氏は孰れも互角、里見氏の指口は、その小説の技巧の如く飽くまで繊細である。久米氏はその棒銀の攻口、中々鋭く、「どんな人とやつても、初の一番は必ず勝つ」と豪語す。結果の豪語に添はざること、毎日なれども、よく先手の利を解せるは彼が天性の強味である。此の連中より稍々強いのは、小川、西宮、瀧井、久米秀治、松山、平岡等の諸氏であり、水上瀧太郎氏は、やゝ超群の強みを蔵して居るやうである。村松梢風氏の指口は、その情話の如く一味捨てがたき味を有し、小川未明氏の指口は線香花火の如くパツ/\として、眼にも止まらず、飛角の大駒を弊履の如く切るところ、俊爽無頼である。が、負けるとなると、一瀉千里パタ/\と参つてしまふ。
 が何と云つても、皆初段に二枚落以下である。金銀と云つた連中が、過半を占めている。否、金銀以下であるかも知れない。此の目高の如き、文壇の将棋好に交じりて、井上八段の角落に向ひ得る幸田露伴氏は、正に巨鱗水を打つの概ありと云ふべきであらう。
 将棋の勝敗、各人の強弱に依ること勿論であるが、然しそればかりではない。非常に微妙な心理の影響もある。敵を怖れても行かず、侮つても行かない。その他、心に喜怒哀楽があつては駄目である。水の如く澄んだ心で、盤上駒無く磐前相手無きの境地に入らなければ駄目である。
 技倆が秀れて居ながら、心理作用で負けた例は幾何でもある。宝暦六年の頃である。仙台の人保原嘉茂左衛門と云ふ青年が、将棋の天才として、修行のために、江戸へ出て来た。少年気を負ふて、眼中名人上手なき概があつた。彼は、修行のために、幕府の将棋所伊藤家に入門を願つた。初ての手合に、彼の相手をしたのは、八段伊藤看壽であつた。鬼宗看の異名を取つた兄の九段宗看と、伯仲の腕があると云はれた名手である。保原は心中五段の実力があると確信して居た。然るに、愈々対局となると、看壽は、入門者に対する伊藤家の定法であると称して、飛角を引いた上に両香を落したのである。所謂四枚落である。心中五段の力あり(八段との対局なれば角落か香落である)と確信して居た保原は、心の裡で激怒した。せめて、二枚落(飛角を落す)なれば兎も角、四枚落とは何事ぞと思つた。いで、その儀ならば粉微塵にして呉れると、血眼になつて立ち向つた。が、焦つたのは彼の不覚であつた。看壽八段の応戦は、絶妙を極めて居た。それに反して焦りに焦つた彼は、平生の自信も、何処へやら、ヂリ/\と攻め寄せられて、無残にも一敗地に塗れたのである。そのために、若き天才保原は慚愧憤悶の余り、一生盤面に向はなかつたとの事である。が、看壽は四枚落で相手を破つたものゝ、相手の実力を認め、後に三段の免状を送つたとの事である。
 その他、将棋界古今無双の名手と云はるゝ天野宗歩も、八段に出世すべき晴のお城将棋に、弱敵大橋宗Eに敗れて居るのである。天野宗歩は、名人に香を引いて対し得たゞらうと云はれるほどで、十一段とも云ふべき神力を供へた名手であつたが、晴の場所につい気怯れがして平生の技倆が出なかつたと云はれて居る。
 その他、慢心のために敗れた例もある。雁木流の元祖檜垣是安は、名人鬼宗看の右香落を破り、得意の余り、凡そ天下に予に角落を勝つべき人はあらじと、豪語した。然るに超えて数日、同じ宗看の角落に向ひ、無残にも敗れたゝめ、彼は憂憤の余り、吐血して死んだと伝へられて居る。
 将棋は可なり気持の問題であるから、自分より上手だと怯ぢてかゝる事と、手も足も出ない。それに反して、度胸よき下手は上手を実力以上に苦しめ得るのである。名人小野五平若かりしとき、黒田清綱の邸へ伺候す。座に先客あり、清綱来客に曰く「此の老人は将棋が強いから一局試みては如何」と、来客も興を催し五平翁とは知らず平手にて立ち向つた。然るに来客の鋒先鋭く、五平翁は四五段の人に対せし如く、苦辛して漸く勝ちたるに、清綱伯笑ひて曰く「おい榎本よく指したな。これは小野五平だよ」と。蓋し五稜郭の勇将は、将棋の達人と知らずして、その胆力に依つて、散々苦しめたのであつた。実力は、初段の遥か下であつたとの事である。
(大正九年八月「中央公論」)


 碁より将棋の方が好きだ

 よく将棋を貶す碁打があるが、碁と将棋との優劣論は大昔からあるのだ、将棋をけなす人に限つて碁は屹度ヘボ碁だ、碁を貶す人に限つて将棋はきつとヘボ将棋だらう。徳川時代に碁の家元の本因坊の門人と、将棋の家元大橋助とが碁と将棋の優劣論を試みたことがある、そして碁の方の家元本因坊道策が香魚懸餌として四百幾手かの大詰物を作れば将棋の家元の一人である伊藤看壽が六百十一手の大詰物を作つて香魚懸餌の先へ出たことがある。此の世に碁と将棋とが有る間は互にその優劣を争ふであらうが、かう云ふ争ひをする連中はザル碁やヘボ将棋を打つ連中であつて相当に上達してゐる人は我が仏を尊しとして他をけなす様なことはしないだらう。豊島君などは将棋は駒に階級的な名前があつてやることが階級的でいやだと云ふ想だが、碁こそ人の領地を占領しあつて、やることが侵略的軍国主義ではないか。将棋は勝負の数が盤面にきび/゛\と現はれて非常に気持が好い、それに比べると碁はまだるこくて現代的でない。これだけでも僕は碁より将棋が好きだ。昔かう云ふ話が故書に載つてゐる。
『原喜右衛門と云ふ宝暦年間に於ける将棋の大家があつた。或る時伏見より乗合船に乗つた、船には尾州の侍が五六人、僧侶が六人、大阪者が五人、京都人が一人ゐた。ところが船中いろ/\な話をしてゐる内に京の男が碁は将棋に較ぶれば盤面広くして手数も多く将棋なぞは取るに足らざる芸なりと物知り顔に喋々と語り、いろ/\碁を褒めて将棋をけなした。ところが喜右衛門始めの内は黙つて聞いてゐたが、あまりの話に片腹痛くなり、京の人に向つて、「お手前は碁を打ちたるにや」と問ひけるに、京の人は怒りて言けるに、「拙者は石丸近三に二つ碁なり」とて鼻高々と答へたり、喜右衛門は云ふのに「お手前は近三に二つと云けるに近三は因碩に三つなれば、お手前は名人に五つなり、さればお手前の碁は碁にあらざるなり」と嘲笑したれば京の人は顔色なかりけり、そこで乗合の人々は喜右衛門に向つて将棋の話を求めたり、喜右衛門はいろ/\物語りをなしたる後、扨て云ふ様碁の目数は三百六十一、将棋は僅かに八十一なれども駒の打換りと云ふものある故、殊の他変化あり、抑も善悪無二邪正一如の八字にて七千余巻の経教となり、御僧達の御学問なさるも只一の善悪の道ならずや、将棋は盤面狭しと云へども大矢数には四百手の詰めあり宗看の作物には二百五十手の詰ありて一手の変化無量にて妙窮り無しといひけるに皆々道理と同じ、喜右衛門は其後尾州家に招かれたり』
 一体将棋と云ふのは独逸のラインドと云ふ学者の説によると「戦争即ち人を殺す事は如何なる目的に向つても罪悪である。乍去人は天性殺伐になる性癖を有するが故に戦場の殺戮に代つて害なき模擬として血無き争の将棋と云ものを発明したのである」といひ、その他多くの学者もこれに付ては色々の説を述べてゐる。
 将棋は趣味としてゞなく娯楽として其勝つたときの気持は非常に愉快である。将棋は盤面の変化が碁より多く大変面白い。将棋は碁に較べると一層民衆的であると思ふ。それは将棋は碁よりその道具を求むることも易く、碁の様に座敷でなくともどこでゞもやれるからである。民衆的遊戯として最もすぐれた物だと思ふ。階級的な名前はあつても碁の様に野心的でない。僕は碁もすきは好きだが、将棋の方がより好きである。話はこの位で止めやう。
(大正十年九月「中央文學」)


 将棋と機心

 田中貢太郎氏文壇に於ける将棋の流行を非難して曰く。将棋は機心を養ふと。妄断笑ふべし。将棋を知らずして、将棋を論ずるとせば僭越なり。機心の字義を知らずとせば無学なり。将棋の勝敗は、実力技倆気根の角逐にして、何等のチャンスなし。 いはんや、スペキュレーションをや。無学とせば笑ふべし。僭越とせば憎むべし。若輩余の言を信じ得ずとせば、乞ふ向鳥に露伴先生を訪へ。恐らくは橘中 きつちゆうの仙趣を説いて、君が蒙を ひらくに やぶさかならざるべし。
(大正十二年二月「文藝春秋」感想文集)


 勝負事と心境

 勝負を争ふ道には、二つある。技倆実力であらそふか、チャンスで争ふかの二つである。二つとも勝負事と云へるが、然し普通は後者の場合、即ち投機的性質あるものを、「勝負事」と呼んでゐるやうだ。
 たゞ技倆実力の争ひにも、チャンスが働くごとく、外見チャンス だけの勝負にも、また技倆実力の働くこと、 を使つてのばくにちもなほ技倆の高下があるのでも知られる。
 角力、剣術、柔術、将棋、囲碁、などは実力技倆の戦ひであるが、然れども時のはづみと云ふことあり、ふとした偶然に依つて勝敗を転ずることがある。殊に、野球、テニスなどは、無情の転々し易きへうきん者のボールを使ふことゆゑ、勝負を決定する要素の中、一、二割はチャンスを含むと云ひて可ならん。バットに触れる球がわづかなる ちがひにてヒットとなり、或はファウルとなること考へれば、チャンスが勝負を決すること往々ありと云ひても可ならん。
 たゞチャンス丈に勝敗のかゝる場合は、 を使つてのばくちの如く、花札を使ひてなす の如く、その勝敗頗る簡単にして殺伐、たゞ勝か敗かの一六勝負に全身の緊張をつなぐところに面白さありと云はゞ云ふべきも、相当発達せる理智と感情とを持てる者の、長く楽しむべき業にてはあらざるべし。
 我々が楽しむべき勝負事は、その内に自身自身の計画と、実力と、予想力と、胆気と、その他あらゆる精神的機能を十二分に働し得るが如く、その勝負事そのものが、生活の縮図の如きものたるを要す。人生に於て、我々の予想が的中する欣び、計画が成就する欣び、実力が発揮せらるゝ欣びなどは、容易に得られない。それから人に対して、優越感を感ずることも、甚だむつかしい。
 たゞ、勝負事に於いては、わづか一時間か二時間かの間に、自分の計画を立て、自分の実力を振ひ、胆気を出すなど、あらゆる精神活動が出来、またそれが生む効果を享楽することが出来るのであるから、勝負事が人生の一大慰安である所以である。
 我々が、時々新聞の講談などをよむのは何故だらう。それはあしこ (ママ)に現代と全く無交渉の世界が展開してゐるからだ。そこでは、久米の平内だとか、清水の次郎長などが、時代を超越して、活躍してゐるからである。そこでは、我々は実生活の労苦を悉く忘れることが出来るからである。
 それと同じやうに、勝負事の世界も、また別世界である。将棋なら、その一局の裡に、新しい世界が拓かれ、新しい喜怒哀楽があるからである。どんな貧乏人でも、将棋を指して居れば手に金銀を沢山持つことが出来、ゆたかな気がするのである。そして、そのゆたかな気は、可なりリアルで、実生活の労苦を充分忘れるのに足るほどである。そして、実生活では、一度も人に優越を感じたことのない男が、町内で盤面では誰よりも偉くなつてゐるのである。
 チャンス丈で争ふ勝負事が単調で殺伐であると同時に実力技倆ばかりで、戦ふものも、何となく息苦しくて、するどすぎていけないが、半分のチャンスと半分の実力とで戦ふものは面白い。
 先年文士賭博云々で文壇の士の間に、八々が盛んであることが、抉摘されたが、勝負事として、風情のあるのは、花やトランプが一番であらう。あらゆる実力を発揮して然る後に天命を待つところが面白い。人生で冒険的企業をやるのと似てゐる。その遊びは、一つ一つの企業で、銘々の主義や方針や、性格や性情までが勝負の裡に反映して来る。そして、花の勝敗などが結局可なり深い人格的な力に依つて左右されて来ることが分るのである。一定の資本を擁し、ある事業をするのと、スケールの大小はあるけれども、結局成敗利鈍の依つて来るところが同じだとまでに思はれる位である。
 英国人が、嘘の をしたとき、「私は生涯賭をしたことがない」と云つた男が、一番巧妙なウソとしてほめられたが、それほど英国人は賭が好きである。そんな意味で、人は一六勝負が、すきである。まだるこい事をするよりも、一時に勝負を決し、それに依つて精神的緊張を味はうとする。特に、ダルな人生で、心を緊張させる少数のものの中では、勝負事は最大なものであると云つてもいゝだらう。
 カキガラ町の米穀市場をめぐつて、合百師と云ふものがありそれが米相場に大影響をして居り、合百その物が、弄花よりもつと面白く、一度それに手を出すと生涯ぬけ切れないと云ふことを聞いたが、勝負事の面白さは、人心に宿る癌で、結局命をとられるまで、 かないものかも知れない。
 そんな意味で、勝負事は芸術と同じ位に、人の生活に喰ひ入つて居り、芸術よりは下品であるが、その重要さは同じ位であらう。人生から勝負事を取られるのと、芸術を取られるのとどちらがいゝかと、投票してみたら、必ずしも芸術派が勝つとはきまつてはゐないのだらう。そして、勝負事から得る面白さも、やつぱり芸術から来る美観と同じく、生活の実感でないところで似てゐる。
 勝負事は、世の道学者達から屢々世務を荒廃するものとして排斥せられるが、然し実際生活で、経済的制限や社会的制限などで、抂屈されてゐる人間に取つては、勝負事の世界で活躍することが、せめてもの慰めではあるまいか。
 学問でも技術でも、あるところへ行けば、人格なり精神の問題だが、勝負事もある程度以上へ行けば、精神の問題だ。幕府将棋所大橋宗桂が、将棋工夫の便としてかきつけた精神陶冶の心得書を抜いて見よう。

象戯 しやうぎ深望の余り万一斯くの如き心持にて其れを執行致さずば罰す可し、思慮の工夫書附 をはんぬ
   象戯 しやうぎ箇條之次第
一、気の勝気の負と云ふこと、 わざ勝業 かちわざの負と云ふこと、位詰めの勝位詰の負と云ふこと、熟未熟と云ふこと、気の強弱と云ふ事、 わざの強弱と云ふ事、気の虚実と云ふ事、 わざの虚実と云ふ事、強中の弱といふ事、弱中の強と云ふこと、先を取るといふ事、先を待つと云ふ事、先となり後となると云ふ事先 これ中の先と云ふこと、先を指すと云ふ事、先 これ後といふ事、後の先と云ふ事、 みだして之れを取るといふ事、手前を指すと云ふこと、見合せと云ふこと、見届けると云ふ事、見切ると云ふこと、始中終と云ふ事、気のそゝると云ふ事、気のいらつと云ふ事、気のおこたると云ふ事、拍子に乗るといふ事、位を見ると云ふ事、ねはきと云ふ事、早きと云ふ事、遅きと云ふ事、麁相 そさうと云ふ事、芸にはまると云ふ事、なづむと云ふ事、あぐむと云ふ事、中推しと云ふ事、嗜みと云ふこと、思案と云ふ事、しよりと云ふ事、根なくなると云ふ事、見届けて詰めると云ふ事、推量の詰めと云ふ事、駒を進むと云ふこと、駒を退くと云ふこと、駒を引くといふ事、駒をよると云ふ事、駒を上げると云ふ事、駒を行くと云ふ事、駒をあてると云ふ事、囲ふといふ事、気の進むといふ事、気の急ぐと云ふ事、気のせわしきと云ふ事、気の静かと云ふこと、気の戻るといふ事、気のこると云ふ事、気の離ると云ふ事、気の移るといふ事、気のおこると云ふ事、気の練ると云ふこと、気のゆるむと云ふ事、気の軽重と云ふこと、気をうばはるゝと云ふ事、気のはやると云ふ事、気と わざと一致といふ事、業のひゝきと云ふ事、業の移ると云ふ事、相人 あひてを恐ると云ふこと、相人 あひてをつゝしむといふ事、相人 あひてをあなどると云ふ事、芸を惜しむといふこと、負けを惜むといふ事、損の徳といふ事、徳の損と云ふ事、釣合と云ふ事、はりあひと云ふ事、あやに乗るといふ事、図に乗るといふ事、打替るといふ事、打棄てると云ふ事、両道と云ふ事、打寄せると云ふ事、突き寄せると云ふ事、両王手と云ふ事、駒をなると云ふ事、待駒と云ふこと、歩を切ると云ふこと、はねると云ふ事、手すきと云ふ事、指掛ると云ふこと、受けると云ふこと、受けとめると云ふ事、指組 さしくみといふ事、盤果気充 きみつと云ふ事。
右百箇條は象戯工夫の便ともならんと予一心の楽みに任せ筆する者也
元禄十一寅年春三月吉日
大橋宗桂作之


 勝負を争ふ場合に於けるあらゆるデリケートな心境をつくしてゐると云つてもいゝ。これに依つて心を練れば、凡ての競技勝負ごとに於ける心境の修業となるばかりでなく、人生に於けるあらゆる対人関係に於ても、得るところが多いであらう。
 これを以て見るも、将棋の中に、処世観人世観の工夫がつめる如く、他のあらゆる勝負事の中にも、かうした契機はあるだらう。
 勝負事をいやしむべからざる所以である。
──勝負事の興味
(大正十三年六月「中央公論」)


 大正棋戦一瞥記

 自分は将棋は關根名人から段位を貰つてゐる。素人有段者として、それほど弱いとは思つてはゐないが、それども六七段以上の高段者の手合せは、その一手一手の意味がはつきり分るものではない。まして碁は……打たないことはない。十二三年前、本因坊派の宮坂六段(当時三段)に一二度稽古して貰つたことがある。当時宮坂氏は、自分の棋品を初段に十一目だと云つた。笑つてはいけない、初段に十一目だつて、ズブの初歩ではない。そのとき宮坂氏はは、貴君 あなた位になるのにも専心にやつて、半年はかゝるだらうと云つた。だが、とにかくその後ちつとも進歩しないのだから初段に十一目である。これを段位に換算せば、初段以下二十段位である。将棋は、段を持つてゐても名人上手の手合は、見ても充分分らないと云つた。まして、碁は初段以下二十段目位の自分に、名人上手の手合が、観戦出来るものではない。たゞ、讀賣新聞社の懇請し依つて碁盤の傍に、一時間ばかりゐたゞけである。本因坊が、エイアシップをふかしながら、考へ込んでゐる横顔を見てゐたゞけである。そして、碁は上品な技芸だけあつて、本因坊も雁金氏も、上品な落着いた感じの人だと思つたゞけである。それから、本因坊が内情はどうか知らないが従来のいきさつを一擲して、棋正社の挑戦に応じたのを愉快に思つた丈である。将棋の方では、昨年来大阪の坂田氏と、東京の高段者が、確執してゐるが、碁や将棋の争ひは、お互にグヅ/\云はないで、万事を盤面で決するのが、一番いゝことだと思ふ。そんな意味で、今度の讀賣の仕事はたいへんうれしい。だが之が、将棋の方で、大阪の坂田氏対東京の土居氏、木村氏などの手合せなどであつたら自分丈は更に欣んだらうと思ふ。だが、今度の棋戦は可なり一般に評判になつてゐると見え、文藝春秋社に来た佐佐木茂索、直木三十五など、碁を知つてゐるか知つてゐないか分らないやうな連中まで「黒が死にかゝつてゐるさうだ。それが死ねば黒が負けで、もし生きれば黒の勝ださうだ」などゝ評判してゐるところを見ると、讀賣の企ては大成功であつたと云つてもよいだらう。
(大正十五年十月五日「讀賣新聞」)


 将棋と麻雀

 前号のゴシップ欄に僕が野口雨情氏と将棋を差して手もなく負けたやうに出てゐたが、あれは間違ひだ。なるほど、野口氏とは、今から六七年前、僕が今より一枚以上弱かつたとき、対局したことがある。七回戦つて、引分一、三勝三敗で、無勝負だつた。そのときの野口氏の棋風は、力将棋とはいへ三三に金が立ち、三二に銀の立つやうな滅茶将棋だつたから、現在の僕なら優に一枚以上引き得ると思ふ。それを、あのゴシップでは、現在の僕が敗けるやうに取られるので甚だ心外だ、僕は、将棋をやるといはれて以来、終始正式の稽古を続けてゐるのだから、年に少くとも半香ぐらゐは進歩してゐるのだ。文壇諸家の生はんじやくの余戯と一緒にされては困る。素人の棋家なら、どんな人とでも平手で対局して、さう負けるとは思はない。因に、幸田露伴氏とはやはり六七年前、一枚引いていたゞいて三勝二敗だつた。しかし、その後自分は一枚以上進んだし、二三年前には、幸田さんと同格のある老人と平手で対局して、遜色なきまでに至つたから、今なら幸田さんとも、どんなに謙遜しても優に平手で対局し得る。外のことも自慢しない僕ではないが、将棋は天狗が多いといはれるだけ、更に自慢せざるを得ないのである。
 文壇棋家では、金子洋文、佐佐木茂索の両君が、一寸強い。僕に飛香落だ。野口雨情氏は、失礼ながら、昔のまゝならばこの両君と同格か、或は少し強い程度ではないかと思ふ。此の両君より少し落ちる人に、水上瀧太郎氏がある。その以下は、久米正雄、直木三十五、里見怐A南部修太郎、小川未明の諸氏、みな同格である。

 麻雀は、つい此の半年位前からやり始めたばかりだが片岡鐵兵氏の鑑定(『世界』新年号参照)によれば、既に確実なるマージャニストを以て許されてゐる。もう本場の鎌倉へ行つても、十分戦へる自信がある。
 文壇での麻雀党では、何といつても久米正雄に敬服する。セオリイの徹底してゐる点、敵の牌に対する洞察、佐佐木茂索のいはゆる遍照金剛の講評には、僕など裨益せられるところが多い。陽気で、しかもあざやかなプレイヤアだ。
 茂索は、文藝春秋社の大会で、優賞盃をとつた豪のものだ。ヂミでするどいプレイヤアだ。そして西風辺からの圧倒的な連荘を得意の戦法とするプレイヤアだ。しかし、その連荘を、まだきに防ぐ法を講じたら戦へないことはない。
 麻雀は、遊戯としては尤も面白い遊戯であると思ふ。大人の遊戯で、これほど面白いものはないと思ふ。しかも大人と子供と一しよに戦つて、両方とも面白い。しかも、伎倆の上手な人が必ず勝つかといふと、さうではない。僕なども家庭でやり、下手な女中などを必ず負かしてやらうと戦つても、相手に三飜ぐらゐの手がついて、あべこべに負かされることなどある。運七分伎術三分遊戯であり、複雑なる変化があり、容易に倦いさうにもない。弄花などは金を賭けないとちつとも面白くないが、麻雀は金をかけなくとも、結構面白い。満款や清一色などをすると二三日は何となく愉快である。
(昭和二年一月九日「週刊朝日」)


 東西八段争覇戦を観る

       一

 碁の方の観戦記を書いたときに一寸希望して置いたことが、実現されて将棋界の八段連中の争覇戦が実現されることになつたのは、愉快である。それに大阪から木見八段が参加することは、更に此の競技の面白さを加へる。自ら九段を称する坂田三吉氏が加はらないことは残念だが、それは現在のところ絶対不可能と見てよい。東京将棋聯盟の坂田氏とは手合わせをせぬと云ふ誓約を翻へさせることだけでも、今の所容易ではない。だが囲碁にせよ、将棋にせよ競技が生命だからあらゆる機会を利用して高段者が技を角することは、将棋界の発達を促し、将棋趣味を普及せしむることに、どれだけ力があるか分らぬ。その意味で今度の企てに各八段が、将来やゝもすれば平手の対局を忌避せんとするが如き逃避的態度を一擲し、銘々駒を陣頭に進め きたつたことは、我々将棋愛好者の欣快とすることだ。これでこそ将棋道の発達期して待つべきである。
 その争覇戦の劈頭第一が、木村氏対木見氏の対局であることは、天下の将棋好きの血を湧かさずには置かないだらう。
 木村氏は、東京棋壇に活歩する飛将軍である。此三四年間に五段よりまたゝく間に八段の高位に上り併も尚優勝の成績をつゞけてゐる人だ。震災直後、半年近く自分は、木村君の稽古を受けたが、将棋が堂奥に入つてゐるばかりでなく、人間としても完成して居る人だ。子供のやうな顔をして居るくせにその態度、その応対老成人の感じである。しかも、その中に若々しき覇気を蔵し、まことに当代稀に見る人物であらう。しかも親孝行で、師匠思ひで、節制己を持し、斯道研究に専心してゐるのだから、生年二十三歳にして棋壇に活歩するする故ありと云ふべしだ。あまり木村君を賞めるやうだが、全く感心な人である。
 其棋風に至つては、善謀沈着、明察深刻、弾力ある剛鉄の如き強みを持つてゐる。「一寸でも間違へば木村氏には勝てない」とは、あらゆる棋士の一致した述懐であるらしい。よく凌ぎよく堪へ、しかも一度敵の欠陥に乗ずれば猛烈なる寄せに寸刻の猶予も与へない人である。
 それに対する木見氏は、関西の棋壇を二分して其一を保つ老練の棋士である。先年花田八段が坂田氏を平番二番とも破り、凱歌を挙げて東帰せんとするのを呼び止めて挑戦し見事花田氏を破つて勇名を轟かした人である。金氏には一敗してゐるが、大崎氏には二勝してゐる。既往の成績から云つても東京の八段連中に対して、一大敵国であることは無論である。木村氏とは先年木村氏の六段当時香落を指して指しかけとなつてゐるから、これが初手合とも云ふべくその結果は、到底予測しがたいほど、興味津々たるものであらう。

       二

 碁の観戦記をかくときに、高段同志の碁がちつとも分らないことを書いたが、将棋にした処で、素人の身を以て高段同志の対局が本当に分るわけではない。景気づけの観戦記を書いてをとなしく引き下ればそれでよいのであるが其処は好きな道だけあつて、何か一言云はずにはゐられないから、素人の立場として、もう少し何か書かう。僕よりも弱い人達には、僕の批評が却つてよく分るかも知れない。一体、木見氏も木村氏も、同じやうに健実な棋風である。木村氏は、序に於て有利になれば位を張つて十分に喰ひ下がり、敵を自滅に終らせるのが、その得意の戦法である。これに対して、木見氏がまた弾力あるねばり将棋で、最初は健実に堅く受け、一旦優勢に転ずれば、ぢり/\とねぢり倒してゆく将棋である。従つて、此の二人者の将棋は、最初から持久的大接戦と約束されてゐる。木村氏が気先を制して喰ひ下り得るか、木見氏が木村氏をして焦慮攻撃に出でしめ得るか。初番戦の興味は、そこに撃つてゐる。
 木見氏は、果然四四歩と止めて相懸りを避けた。一体四四歩は古来よりの指手で、十余年前には一般に用ひられた戦法である。が、四四歩と止めたのでは、先手にその徳を発揮せしめ易いので、近来は殆ど指さないで、相懸りが流行である。然し相懸り戦は、序盤の策戦の巧拙、及びその成果が、終盤までを支配する将棋であつて、壮快ではあるが尤も危険なる将棋である。殊に高段者同志の対局に於て、初盤の形勢は、到底覆へしがたき将棋である。故に、あくまで研究を積み、しかも実戦を経てゐなければ、危険な将棋である。故に木村氏の如き、最近多くの相懸り戦を戦つた敵に対し、相懸りを避けて、四四歩と止め、序の策戦よりも中盤戦の力戦に恃みを置きしは、木見氏としては至当のことであらう。かくして、玉を十分堅固にし得意の持久戦に導き入れて自力を充分発揮しようと云ふのであらう。
 木村氏の、五六歩は、普通敵の動静を見るところを五六歩と指したのは、以下七八銀と早く引角にして敵の策戦を定めしめたので、木村氏の巧妙なる策戦ではないかと思ふ。一体、木見氏の四四歩は向ひ飛車か袖飛車か、四間か相櫓か、それは木見氏以外に知る者はなからうが、それを五六歩と敵の策戦を縮めしは、木村氏の深謀であらう。思ふに、両者とも既に策戦が立てられてあつたもので、木見氏が四四歩と止めれば、木村氏は最初から向ひ飛車に指させるつもりだつたのだらう。茲で両者とも策戦通りと云ふべく心残りない戦ひが見られると云ふわけだ。
 木見氏の三二銀は、五四歩と指す手もあるが、五四歩と突かせた方が、定跡を離れて居り、力戦になるので、突けば突かせる考へであらう。然し、五五歩は、肝要の地点だけに早くこの位を取るときは、却つて逆襲される怖れがある。そんな意味で、木村氏も取らなかつたのだらうし、また敵と向飛車に定める考へ上取らなかつたと思ふ。もし、木村氏が位を取れば、木見氏は飛車を中央に振つて、中央を奪回する逆襲戦に出たかもしれない。
 木村氏の九六歩に対し、木見氏が九四歩と受けなかつた点、また同氏が五二金左と上らずに早く八二玉と常形を避けた点などには高段者としての苦心が存するのだらう。
 木見氏の五一角は、一五歩と指す手もありさうだが、七九に角がゐる以上、一五歩と指すのは疑問であらう。木村氏はわざと指させる考へであつたのだろう。
 木見氏の二三金は、六二銀引六三銀立の関係上、金を左翼に用ゐ十分に防戦するつもりであらう。此の辺りで、木見氏の策戦はいよ/\分つたと云つてもよい。持久戦は持久戦でありながら、此の辺から戦機は、二筋三筋四筋に停迷し始めたと云つてもよい。
(昭和二年一月十九日、二十日「讀賣新聞」)


 木見木村対局観戦総評

 木見氏対木村氏の対戦は、遂に木見氏の敗戦に終つて、木村氏の声明を ほしいまゝにせしめたが、以下全局面に亘つて、少しく自分の感想を語つて見よう。
 序に於て、木見氏は後手番得意の向ひ飛車に陣して、木村氏を手詰まりにしやうとした。
 だが、持久戦ならば当然受けるべき端歩を木見氏は受けなかつた。これは はしの一手をはぶき、中央に於て早く駒組を整へ十分に受けようとしたのであらうが、冷静なる木村氏に穏やかに指されたので、却つて自分の方が、手詰りになつてしまつた。剰つさへ木村氏に銀と金とを繰更へる余裕を与へてしまつた。木村氏をして焦慮攻勢に転ぜしめようと謀つたのであらうが、あまり謀りすぎて木村氏に十分の攻撃準備を整へさせてしまつた観がある。一体向ひ飛車は相手が指し過ぎてくれなければ自分の飛角が捌けない将棋であるから、成算がなければ攻勢に転じない木村氏に対して、その効果が薄弱であつたと云つてもよいだらう。
 中盤に於て木見氏は中央に位を取りながら、攻めるに難い将棋になつたとき、木村氏は七九角などぢりぢり/\と決戦の準備をしながら容易に攻めなかつた。木見氏も三三金以下極力防戦につとめたが、木村氏にに四六金と上られては、木見氏に漸く困惑の色があつたと云つてもよいだらう。此の辺、木見氏も決戦に出でんとして苦心し、木村氏も容易に手を下さず、虚々実々の策戦は観戦者の手裏汗を生ぜしむるほどだつたが序に於ける手損のため、木村氏の方が常に攻勢に出られる模様であつた。思うふに木村氏の飛車は行動自由であるに反し、木見氏の飛車は二段目に居なければならぬ飛車である。従つて決戦の場合、金銀交換となれば、飛車に当つて後手となるやうな欠陥が常に存在したと云つてもよい。此の点に於て、木見氏は可なり苦しんだらしい。
 木村氏の五五金と出た手は、巧妙第一の手で、初よりこの機会を狙つてゐたやうである。元来木村氏の方にも、これと云ふ手のない将棋で、いかにして攻撃に出づるかは観戦者の疑問であつたが、五五金と先づ金を与へるが如き手は我々素人の心胆を寒からしむる活手と云ふべきであらう。
 木見氏が、五八歩と打つたのは棋局の頽勢を感じ、初めよりの防戦主義を一擲して猛然攻撃に転じたのだらう。然るに木村氏は、六三歩と打ち飛車先を封じ然る後六八金と受けて、木見氏をして乗ぜしめなかつた。これに対し、木見氏は五三金右六四銀と、決戦的方針を続けたが、木村氏に五四銀と逆襲されたとき、木見氏は飛角は逆襲に対し露出してゐるし、玉は敵玉対し薄弱であるために、飛を一二に避くるが如き悲境に陥り木見氏の頽勢は遂に挽回する由もなかつた。
 その後の木村氏は、一手の猶予も与へず巧妙に攻め倒したのは、木村氏の面目を充分に発揮してゐると云つてよい。
 将棋は技倆の争ひ以上、心術の争ひであり、体格の争ひである心身をこめての人間的格闘である。現代の競技中、この位深刻な全人間的な競技はないと云つてもよいだらう。自分が、将棋を娯しんで容易に、飽かない所以も亦実に茲に在る。終りに、木見氏が遠征の労をねぎらひ、木村氏が善戦の巧を讃して置く。
(昭和二年二月三日「讀賣新聞」)


 二月雑記

 将棋隆盛

 報知を初め、各新聞社で将棋に力を入れ始めて以来、文壇の将棋熱はは驚くべきものがある。殊に、文藝春秋社の如き、将棋のため社務荒廃の怖れさへあるほどである。僕などに、両桂位の人でさへ、新聞の棋譜を見て三四銀上りはどうの、八二飛廻りはどうの、木村はどうしたの、大崎はどうだと評してゐる。彼等に、本当のことはわからなくても、ある程度まではわかつて面白いのであらう。この勢ひを以てすると、空前絶後の将棋隆盛時代が来るだらう。
 それにつけても、棋士諸君に望みたいことは、かういふ棋道にとつては誠に目出度い時代に際会したのだから、各自その品性棋品を陶冶して、棋力充実勝負本位の黄金時代を現出すべきである。今までのやうな勢力争ひや収入争ひなどの盤面以外の醜い争ひは断然よすべきであらう。それにつけても、東京将棋聯盟がもつとも有力な組織になり、会館の一つをも持つやうにならなければならないと思ふ。
 序だが本紙で、目今手合中の木村氏対土居氏の勝負は、刮目すべき近来の棋戦だらう。木村氏にとつても土居氏にとつても、負けてはならない大事な試合であらう。努力家で研究家の木村氏と、八段中最も天才的である土居氏との勝負は、平手としては初手合であるだけ、我々の興味をそゝらずにはゐない。
 それから、序だからいつて置きたいが、大阪の坂田名人に対しても、いつまでものけ者にせず、(当時東京の大崎、金、花田の連袂昇段は可なりお手盛り的であつたのだから、坂田氏の自選昇段もある程度以上は非難出来ない)実際、それに相当する実力のある人だから、この際妥協の道を講じて、土居氏対坂田氏、木村氏対坂田氏等の好手合を実現してもらひたいものである。
(昭和二年二月二十三日、二十四日「報知新聞」)


 将棋讃

 あらゆる競技の中で、将棋ほど趣が深くて、心理的で、人格的であるものは少いと思ふ。将棋は技術だけの争ひでなく、技術以上心術の争ひであり、人間全体の争ひであるやうだ。昔、徳川幕府は、将棋所を置いて、軍略の参考にするために、将棋を研究させたと云ふが、それが一面の真理を含む程度に、将棋は奥ぶかいものだと思ふ。
 将棋が、軍略の参考になるかどうかは知らないが、将棋の盤面の工夫から、引いて人間に対する態度、人生に対する態度の工夫もつくと云ふものである。
 将棋も、ある程度以上の技倆になると技術の問題以上に、精神の戦ひとなつて来る。驕つてもいけない、と云つてビク/\してもいけない。形勢が少しよいからと云つて、油断すると却つてやられる。形勢が悪いと思つて、奮闘すれば却つて、優勢になる。此の位、対局者の気持が、勝敗に関係するものはないと思ふ。テニスなどでも、アガツてしまふと、弱敵に負けるものだが、将棋は仕合時間が長いだけに、心理的影響が非常に多いやうだ。不動不退転の心境を持つた人間でなければ、難戦には勝てないやうだ。剣術なども、剣先だけの争ひでなく、心の機鋒の争ひであると思ふが、将棋も技倆以上、心術の争ひであるらしい。だから、高段になると分り切つた手も容易に指さない。終盤戦になつて(下手 したで)五七歩(上手 うはて)同銀(下手)同馬と、極まつてゐるやうな手でも、上手は、同銀を二十分も三十分もしてから、やつと手をおろす。すると、(同馬)と取ることが、きまつてゐても、下手は迷つて来る、上手が、二十分三十分も、考へた以上、何か名手が潜在するのではないかと思つて、気迷ひがする。さい云ふ心術的駈引は、高級将棋戦にはかなり大事であるらしい。
 将棋には、指し過ぎなど云ふ言葉もある。これは、あまり攻撃に出すぎて、含みを残さないことだ。我々は、人生に於いても常に指し過ぎをしてゐはしないか。指し過ぎは、そのときは壮快でも、アトできつと報いが来る。過ぎたるは及ばざるに如かずである。また将棋で、苦境になると、ぢつと受けてゐる気持、隠忍自重して、敵の隙が出来るのを待つてゐる気持なども、対人生には可なり必要だ。また、将棋の言葉に『未だ敗局にして勝勢なきは非ず、未だ勝局にして敗勢なきは非ず』と云ふ言葉があるが、これなども人生の教訓としても、いゝものだとも思ふ。いな、人生に於ては勝局には必ず敗勢が存在してゐるやうなものである。
 その上将棋は、盤面上が一つの別世界で、実人生では、町内で一番仕様のない人間でも、盤面では町内第一の王侯になれるし、実人生では借金で首が廻らなくても、将棋の上では、相手を、きゆうきゆう云はせることが出来る。実人生の苦悩以外の世界に遊ぶことが、慰楽の目的だとすれば、将棋などこそ、第一の慰楽でなければならない。
 夏の暑熱を忘るゝに、何ぞ山水をもちゐん。人生の苦悩を忘るゝに、何ぞ酒色をもちゐん。四十の駒子 こま、方尺の盤あらば、以て別天地に優悠することが出来るのである。将棋の徳、また讃するに堪へたりである。
(昭和二年五月「講談倶樂部」)


 秋宵雑記

 露店の詰将棋

露店の詰将棋も、だん/\跡を絶つて来た。詰めようとする人が少くなつたゝめであらう。およそ、露店の詰将棋は、決して詰めてはいけない。あれは、初段に、金銀位の人にも詰められさうに見えて、而して詰まぬ罠がある。この罠は、初段に二枚位の人に判る。この罠に気がつき、もう大丈夫と詰めにかゝると、もう一つ第二段の罠がある。この第二段の罠は初段に一枚位の人には判る。だから、初段に一枚位の人が詰めようとすると、更に第三段の罠があらうといふ仕掛である。

 将棋会館

 日本棋院に対し、日本将棋院がほしいことは、あながち専門家だけの希望でない。僕等も、どうかして建てたいと思つてゐるのである。だから将棋を捨て、米相場師として成功した桑名の小菅八段が、その金を出すと云ふ噂を聞き、僕も欣んだ一人である。ところが、先日本紙の生駒さんが書いてゐたことを読みアキレてしまつた。将棋会館を建てゝ呉れる代りに、小菅八段を名人にしようと云ふ計画があるとの事である。生駒さんが、書く位だから、まんざら嘘ではあるまい。思ふに日本将棋院は、どんなに大切でも、将棋界の大義名分は、その十倍位否百倍位大切である。そんな事をすれば、どんな壮麗な将棋会館は出来ても、天下の精神的同情を無くして、折角隆盛になりかけた将棋道も、忽ち衰運に向ふに違ひない。第一、坂田自称名人をボイコットした面目など、どこかへふつ飛んでしまふではないか。恐らく小菅八段も、そんな馬鹿な要求をしたわけではないだらう。阿諛便佞の人間が、御機嫌取りにそんな事を考へ出したのだらう。もし、小菅八段に、本当にそんな野心があるのなら、そんな金は、きつぱりと断り、改めて満天下の将棋愛好家から、浄財の喜捨を仰いで、こさへる方がどれだけ立派だか分らない。むろん、簡単には出来ないが、五年十年かゝつてもかまはないではないか。
 とにかく将棋道を捨てゝ三四十年にもなる小菅八段をたとひ棋力があらうとも名人に担がうなど、沙汰の限りである。もし、そんな事が実現しさうなら、僕は率先して、全国将棋愛好家大会でも開き、断々乎とし反対するつもりである。
(昭和三年十月十八日、十九日、二十一日「報知新聞」)


 将棋と人生

 将棋はとにかく愉快である。盤面の上で、この人生とは違つた別な生活と事業がやれるからである。一手一手が新しい創造である。冒険をやつて見ようか、堅実にやつて見ようかと、いろいろ自分の思ひ通りやつて見られる。 しかも、その結果が直ちに盤面に現はれる。その上、遊戯とは思はれぬ位、ムキになれる。昔、インドに好戦の国があつて、戦争ばかりしたがるので、侍臣が困つて、王の気持を転換させるために発明したのが、将棋だと云ふが、そんなウソの話が起こる位、将棋は面白い。金の無い人が、その余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思ふ。
 将棋の上達方法は、誰人 だれも聴きたいところであらうと思ふが、結局盤数 ばんかずを指すのが一番だと思ふ。 ことに、自分より二枚位強い人に、二枚から指し、飛香 ひきょう、飛、角、香と上つて行くのが、一番たしかな上達方法だと思ふ。
 自分は二十五六のときには、初段に二十段くらいだつた。つまり、初段に大駒二枚位だつたと思ふ。その頃京都にゐたが自分が床屋の主人が、将棋が強かつたので、よくこの人と指した。最初は二枚 おちだつたが、飛車落までに指し込んだ。それから東京へ来た。大正八年頃から、湯島天神下の会所へ通つた。 ここの主人は館花浪路 たてはななみぢと云ふ老人で、井上八段の門下で、幸田露伴先生とは同門だつた。時々幸田さんのところへお相手に行つてゐた。この老人は、会所を開くとき、所々の将棋界に出席して商品の駒や将棋盤を沢山かせぎためて、それで会所を開いたと云ふのだから、可なりの闘将だつたのだらう。この人に自分は、最初二枚を指した。二枚は局 なかばにして相手が、駒を投じた。其後 そのご飛香落から平手 ひらてまでに指し進んだ。この会所に、三好さんと云ふ老人がゐた。 この人は将棋家元大橋家の最後の人たる大橋宗金 そうきんから、初段の免状を貰つてゐると云ふ珍らしい人だつた。よく将棋の古実などを話してくれた。ものやはらかいしかし皮肉な江戸つ子で、下手 しもてには殊に熱心に指してくれた。この人も飛香落から指して、平手に進んだ。この頃は、自分として、一番棋力 きりょくの進んだときだと思ふ。この会所で、今の萩原六段と知り合になつた。大阪から来たばかりの青年で、まだ土居さんに入門しない前だつた。香落で指して、滅茶苦茶に負けた。恐らく飛角香位違つてゐた。
 とにかく、二枚位違ふ人に、だんだん指し進んで行くことは自分の棋力の進歩が見えて、非常に愉快なことである。しかし、さう云ふ場合は、絶えず定跡 ぢやうせきの研究が必要である。二枚落ちで指してゐるときは二枚落の定跡を、飛香落で指してゐるときは飛落の定跡をと、定跡の研究を進めて行くべきである。
 将棋をうまくならうと思へば、定跡は常に必要である。殊に初段近きまたはそれ以上の上手と指す場合、定跡を知つてゐると云ふことは、第一の条件である。定跡を知らないで上手 うはてと指すことは、下駄履きで、日本アルプスへ登るやうなつまらない労力の浪費である。例へば、二枚落を指す場合、六五歩と下手が角道 かくみちを通すか通さないかは、山崎合戦で、天王山を占領するか否か位の大事な手である。自分など下手と二枚落を指し、下手が六五歩と突いて来ないとこりや楽だと安心するのである。語を換へて云へば、六五歩と角道を通す手を知らないで上手と二枚落を指すことは、槍の鞘を払はないで突き合つてゐるやうなものである。
 飛香落にも、角落にも、飛落にも、ゼヒとも指さなければならない手があるのである。だから、かう云ふ手を知らないで、戦つたのでは勝てるわけはないのである。しかし、もし六五歩と云つたような二枚落の定跡のABCを知らずに、上手と指して勝てる場合があつたら、それは上手がそれだけの力がないので、所謂手合違ひの将棋である。そんな場合は角落の違位しかないのである。語を換えて云へば、定跡を知らなかつたら、上手に向つて角一枚位は損である。定跡を知れば、飛角でも勝てるのが、定跡を知らなければ二枚でも勝てないのである。
 玄人 くろうとと指した場合、玄人が本当に勝負をしてゐるのか、お世辞に負けたりしてゐるのではないかと云ふことは、頭のいい人なら、誰にでも気になるだらう。「若殿の将棋桂馬の先が利き」といふ川柳があるが、それと同じやうに玄人相手のときは、勝敗とも本当でないやうに考へられる。
 しかし、現今の棋士は相当の人格を備へてゐるから、追従負 つゐしようまけなどはしないと信じていいと思ふ。ただ、玄人と指す場合、最初の一回は、玄人は自然に指してゐるのである。だから、最初の一回は勝ち易い。しかし、一度負けると玄人は、今度は負けまいと指すであらう。だから、玄人に二度続けて勝つた場合は、たしかに勝つたと信じていいのであらう。二度つづけて負けると、三度目には、玄人はきつと定跡を避けて力将棋を挑んで来るが、この三度目を負すと圧倒的に勝つたと云つてよいだらう。
 初段に二枚以上の連中の人達では、一枚位違つてゐても、平手で相当指せるものである。四五番の中では、下手の方が一二番は勝てるものである。だから、一枚位違つてゐても、いつも平手を指してゐる人があるが、しかしそれでは上手の方はつまらないと思ふ。少しでも力が違つてゐる場合は、ちやんと駒を引いて指すべきだ。でないと上手の方がつまらないと思ふ。
 玄人と素人の棋力を格段に違つてゐるように云ふ人がある。素人の初段は、玄人の初段とは二三段違ふと云ふのである。しかし、自分は思ふに玄人と素人との力の違ひは、ただ気持の問題で、一方は将棋が生活のよすがであり、その勝敗が生計に関し、立身に関すると考へるからだと思ふ。素人だつて、玄人同然の必死の気持ちで研究し対局したならば、さう見劣りするものではないと思ふ。
 将棋を指すときは、怒つてはならない、ひるんではいけない、あせつてはいけない。あんまり勝たんとしてはいけない。自分の棋力だけのものは、必ず現すと云う覚悟で、悠々として盤面に向ふべきである。そして、たとひ悪手があつても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。そのうちには、どんな敗局にも勝機が勃々 ぼつぼつと動いて来ることがあるのである。初心者の中には飛車を取られると、「えつやつちまへ!」と云つて、角までやつてしまふやうなことを絶えずやつてゐるやうな人がある。
「将棋は、 せんを争ふものである」と云ふことを悟つて上手 じやうずになつた人がゐるが、先手先手と指すことは常に大切なことである。それから、お手伝ひをしないこと、例へば敵が歩を打つて来ると、これを義理のやうに払つて、敵銀を進ませてやると云ふやうなことを初心の うちは絶えずやつてゐるが、このお手伝ひをやらなくなれば、将棋は可なり進歩してゐると云つてもよいだらう。
──勝負事の話
(昭和四年一月「文藝春秋」)


 将棋のこと

 六月号の雑誌「朝日」を見ると、馬場孤蝶氏が僕と幸田露伴先生とが指した将棋のことについて言及されてゐる。それは僕が数年前幸田先生と角落で指し、僕が最初三番勝ち、その後二番僕は負けたが、幸田先生はその後その席上に居た安成貞雄君に「わたしは誰と指しても初三番は負けます。」と云つたと云ふことから、三番負けた後は、僕が何番指しても勝てないだらうと安成君が云つたと云ふことから、達人上手と云ふものは、最初敵の力を計るために負けるものだと云ふ説を立てられてゐるのである。
 今更、こんなことに抗議をする必要はないのだが、しかしかう云ふことは将棋を知らない素人 しらうとを誤り易いと思ふから、一言して置く。幸田露伴先生が、「私は誰にでも最初三番負けます。」と、安成君に云つたと
*2云ふのは多分ウソだらうと思ふのである。一体敵の力を計るためなら、盤に対し、数十手を交へればすぐ分ると思ふ。少くとも一番負ければ、直ちに分ると思ふ。一番指して敵の力が分らなければ、段以上の指手では絶対にないと思ふ。  僕が幸田先生のお宅にお伺ひしたのは、大正九年少くとも十年頃で、僕の棋力は今より一枚以上弱かつたと思ふ。僕は角を引いて頂いて指し、三番連勝し、後二番負けたと思ふ。馬場孤蝶氏の説に依れば、幸田先生は、僕の棋力を計るために最初三番負けたと云ふことになるのであるが、凡そ初対面の者が、将棋を指す場合は少くとも二番多くとも三番指すのが普通である。あの場合だつて、一二番と云つてお願ひして指したのである。僕が二番連勝して、「どうも有難う ございました。」と、云つて駒を収めてもよかつたのである。 いはんや三番連勝すれば勝負は極まつたわけであるから、「どうも失礼しました。」と云つて、駒を収めるのが普通である。さう云ふ場合には、幸田先生は一番の勝局なくして了るのである。最初から十番手合 てあはせでもお約束しての手合ならば、最初のテストとして三番負けるのもいゝかも知れないが、最初から二三局の手合に、どんな達人上手と云つても試験的に三番棒に負けると云ふ手合の方法があるだらうか。それを、達人の仕合の心得のやうに説かれる馬場氏の考へ方は、あまりに、将棋を知らなすぎると思ふ。
 僕が、三連勝して、しかも尚駒を収めなかつたのは長者に対する礼儀である。と、僕が威張つても仕方のないことではないだらうか。
 なるほど、高段者が素人と指しても最初の一番は相手の指し振が分らないために、よく負けるものである。しかし、高段者は手合相当の駒を引いて素人に対して二番続けて負けることなどは、絶対にないことである。況んや三番棒にやられることなどは、高段者としては絶大の恥辱であらうと思ふ。
 私は、玄人 くらうとと指して指分けの場合はあまりうれしくない。それは最初の一番は、相手が自然に指してゐると思ふからである。しかし二番連勝したときは、非常に愉快である。二番目の一番は、相手が実力を出してゐるからである。況んや三局目は、玄人は力将棋にしてゞでも勝たうと努力するもので、それを倒せば立派に勝つたと思ふのである。
 相手の力を試すために、三局つゞけて負けるなどと、そんな馬鹿な話が将棋道にあるわけはないのである。
 私は、幸田露伴先生との勝敗を彼是云ふものでないが、馬場氏の考へ方は露伴先生のの文学を尊敬するのあまり、その棋力をまで、ひいきの引き倒し的に考へすぎてゐるのである。
 敵の力を測るために、三番続けて負けることが、達人上手の心がけなどと云ふ考へ方は、将棋に遊ぶ人々を誤り易いと思ふ。天野宗歩や大橋柳雪などが、敵を測るために、一番でも、負けたことがあるだらうか。
 また、最初僕が三番勝つて後は幾番指しても勝てなかつたゞらうなどと云ふことも、馬鹿な話で、凡そ将棋と云ふものは、二三段違つてゐて、平手で指してきつと勝つと云ふことは出来ないものである。かう云ふやうな意味も、馬場氏などには恐らくお分りにはならないだらう。
(昭和四年六月「文藝春秋」感想文集)
*2 底本では“の”。


 自分と各種ゲーム

 将棋

 甚だ、相すまないが、この頃可成り不熱心である。萩原六段が、十年近く来るので、来れば稽古をするが、この頃は、僕の方で、お相手をするやうな風である。文壇では、佐佐木茂索が進境を示してゐる外、みんな弱い。昔からたいてい二枚以下だが、今でもみんな二枚である。
 知らない人とは、あまり指さない。しひて敵手を作つて負ければ(菊池に勝つた)などと自慢話にされるし、此方は別に手柄にもならないので、誰とも指さない
(昭和五年五月「文藝春秋」)


 菊池寛氏縦横談


将棋で人物をねる
──私共の野間社長は剣道の家柄で、よく剣道と人生観を結び付けて話しますが、将棋等に就てさういふお話がありませうね。
 これは野間さんのお世辞になるかもしれないが、先日野間さんの息子さんの ひさしさんが、日比谷の国民大会の時にあの大衆を前に置いて、少しも怖れず堂々と講演をしたのをラヂオで聞いたが、あれは剣道で鍛へた度胸ですね。前の慶応の投手宮武三郎は僕の親戚だが、先日結婚式のとき野球でも何でも一芸一能に依つて人間は鍛へることが出来るから、宮武は野球で養つた度胸で人生に於て奮闘しろと云つてやりました。将棋界に大崎八段といふ人が居るでせう。あの人が日露戦争に行つて負傷して居るのですが戦争に行つて死生の巷を潜つて来てから、将棋が断然強くなつて来たんですよ、だから矢張り将棋にも度胸が必要だし、度胸のある人は矢張りその度胸が何所かでものを云ふ訳ですね。将棋の勝負だって、或る程度まで行けば人間同士の性格の争ひになりますね。もう長い間指しつヾけて夜も更け、心身が疲れて来る、さうすると性格の強さの争ひですね。弱い性格のやつは圧倒されるですよ、麻雀 マージヤンでもさうです。麻雀 マージヤンは初めの中は技倆の違ひもあるけれども、半年も一年もやつて居れば、どうせ単純なことですから皆同じくらゐなものですよ。さうして勝負を争つて居ると矢張り性格が出て来るですね。性格的に強い奴は頑張つて負けても乱れないですよ、麻雀 マージヤンなど負けた時に乱れないで頑張つて居ると、さう大敗しないですよ。僕とやつて居る友達でも、性格が出来て性格的に強い奴が矢張り強いですよ。学問などでも結局性格の問題になると思ひますが、大抵の事はさうではないですかね。
──将棋などやつて、負けても乱れないといふ主義でやれば人間が出来るわけですね。
 それはさうですよ。人間が出来なかつたら中々勝てない。将棋界の木村八段などを見て居りますと、まだ二十二三の時から四十位の落着き方です。目をぢろつとしてゐて、四五十位の老成人のやうな落着き方です。木村君など将棋を指す時は、相手の心理状態をぢつと観察して指して居るのです。この人はどういふ相手だとか、最後に来たら せる男だとか、斯う云ふところではこの男は間違ひ易い男とか、斯う云ふ風に仕向けるとこの男は案外弱いとか、さういふことをちやんと見抜いて指して居るのですからね。
(昭和六年一月「キング」)


 将棋の話

 私は先程二元放送によつて行はれた東西対抗将棋大手合を興味深く聴いた一人であり、此の放送は将棋ファンの歓迎をうけて好評であつた、併しこの二元放送は高段者同士*3の対話であつただけに一段と興味をそゝつた事はいふまでもないことだが、それだけに又素人にとつてむつかしい点もあつたやうだ
 そこで私は先づ玄人将棋はどんなものであるかといふことを述べ次に素人将棋の事に及び、更に玄人と素人の将棋について興味中心にお話をしたい
(昭和九年一月十五日「讀賣新聞」)
(同 「朝日新聞」)
*3 底本では「高段者者同士」


 駒に教へられる成功の道

 将棋は、あまりに勝たんとすると勝てない。人生も、あまりに成功を急ぐと、多くは事を誤る。しかし、将棋も、あまりに退嬰萎縮すると、敵に圧迫される。人生もあまりに、控目にしてゐると、人から黙殺される。
 将棋で、位を張りすぎ高く組んで、一端を破られると、収拾出来なくなる。人生も、手一杯の仕事をすると、万一事変に際会したとき、之に堪へる力が無い。と云つて、将位を低く組むと、駒を運用するチャンスが無くなつてしまふ。人生でも、あまりに大事を取りすぎると、自分の才分を発揮するチャンスが得られない。
 将棋で、敵を侮るのは禁物である。人生に於ても然り。将棋で、相手を怖れすぎてもいけない。人生でも然り。
 将棋でさし過ぎと云ふことがある。人生でも云ひ過ぎ、やり過ぎと云ふことがある。人生で、熟慮断行と云ふことがある。将棋に於ても然り。人生で、遠謀深慮と云ふことがある。将棋に於ても然り。人生に於て、材を死蔵すると云ふことがある。将棋でも、駒を死蔵すると云ふことがある。人生で、人使ひの上手なことは、大人物たる第一歩である。将棋で、各々の駒の運用に巧みなることは、上手に至る第一歩である。人生で、経験と学問の必要なるごとく、将棋に於て、実戦と定跡とが必要である。人生の競争に於て、先手の必要なる如く、将棋に於ても然り。
 将棋は、敵を侮らず怖れず、勝たんと焦らず、常に気分をゆるめず、一手々々慎重に考慮し、計画を廻らし、先後を考へ一手々々敵に先んじて進めば、自分の実力を十二分に発揮することを得て、多くは勝を制し得るが如く、人生に於ての成功の要訣も、各々同じものではないかと思はれるのである。
──芸から得た処世訓
(昭和九年七月「日の出」)


 将棋

 自分は、近代将棋に すこぶる不熱心である。たゞ、社員などを相手に、二枚以下の手合をする だけである。
だから、平手に近い相手と勝負をしようなどと云ふ気はしないのである。それに、自分のやうに将棋は素人 しらうとでも、名前が知れてゐると、将棋をさして負けたりすると(菊池に勝つた)と、いつ迄も云はれるし、損である。
 将棋に熱心で、大に技を磨かうと思つてゐたときは、闘志もあつたが、今では熱がない だけに、そんな勝負はしたくないのである。平手なぞ、数年指さないので、弱くもなつてゐるだらうと思ふ。
(昭和十年七月「話」話の塵)


 指し過ぎ無理筋

 将棋聯盟の分裂は、非常に遺憾な事である。しかし、遠因は名人決定戦を「日日」に占有せしめた事にある。あゝ云ふ事は、将棋界としては、一大公事であるから、どんな大新聞にでも独占さすべきではない。その結果、「朝日」は堪らなくなつて神田七段血戦譜と云ふのをのせた。これが亦、無理である。一人の棋士を中心としての手合 てあはせなどを、聯盟が承諾すべきではなかつた。まして、その結果に依つて昇段を考慮するなどは、無理の上にも無理である。
 昇段などは、各棋士に公平に対戦の機会を与へる棋戦の結果に依るべきである。勝つても負けても神田七段は、 つぎなど云ふ棋戦は、特殊な偏奇した催しで、かう云ふ もよほしを聯盟は、最初から承諾すべきではなかつたのだ。
 この二つとも、将棋で云へば無理筋であり、指し過ぎである。七八段の大家が将棋の原理を、人生に応用する事を知つて居れば、最初からやるべき事ではなかつたのである。
 しかし、分裂した以上、我々は一日も早く和解を望んで止まないのだ。神田七段が男らしく、自発的に昇段問題を一事延期して、聯盟の融和を計るなども、その一方法であらう。
 とにかく分裂のまゝで、時が経てば、将棋界は衰へるに定まつてゐる。木村対金子、木村対花田などの対戦がなければ、新聞将棋の興味は、半減するだらう。
 だから、たとひ二派に分裂するとも、手合 てあはせ だけは、従前 どほりにやることは、お互いの為であらう。
 この点は、二派の棋士が、充分の理性を働かすべき所だらうと思ふ。
(昭和十一年一月「話」話の塵)


 将棋界の分裂

 将棋界の分裂のために、新聞の将棋が、俄然つまらなくなつた事は、 おほひがたい事実である。天龍一派が脱退したとき、一時角力がつまらなくなつたのと同じである。好取組がなくなるからである。
 政友会の前田米蔵氏は、囲碁も将棋も初段位の力量があるとの話であるが、先日ある会合で会つた時、(私はこの頃、碁よりも将棋が好きになつてゐたが、今度将棋界にゴタ/\があつたので、将棋も嫌になり、この頃は、新聞将棋も見ないことにした)と、云つて居られた。これが、将棋ファンの心持を代表した言葉である。この分裂が長くつゞけば、新聞将棋の魅力は、段々無くなり、新聞は将棋を掲載しなくなるであらう。
(昭和十一年三月「話」話の塵)





 将棋界が合同した。将棋大成会などゝいふ名前は甚だ可笑 おかしいが、合同した事は欣ばしい事だ。全国の将棋ファンはみんな、喜ぶだらうんし、各新聞社も愁眉を開いたであらうと思ふ。分裂の原因が、昇段制度の不備にあつたのであるから、この際昇段規定を確立することは第一の急務であらう。
(昭和十一年八月)
話の屑籠


 坂田氏の棋力

 坂田大阪名人と木村、花田両八段の手合が近々行はれることになつた。これは、将棋ファンにとつては、相当の興味を惹くだらう。
 が、大体の議論は、もう坂田は木村や花田のやうな現役棋士の敵ではないだらう。実際に千軍万馬の間を馳駆 ちくしてゐる現役の大将には、敵はないだらうと云ふのである。
 が、萩原八段の説は違つてゐた。
「私は、坂田さんは相当強いと思ひます。それは今健康がとても秀れてゐることです。身体が悪ければ問題ではありませんが、身体はとても、よささうです。それに、この夏大阪で、坂田さんと会ひましたが、人と話してゐる声を そばで聞いてゐると、 み切つてゐて、老人の声とは思はれない位に、元気が溢れてゐます。あの元気なら、充分に指せると思ひます。実戦に遠ざかつてゐるから弱いだらうと云ひますが、あの位の境地に達すれば、いくら指さなくつても、さう技倆が落ちるものではなく、それに現在の棋譜も見てゐるでせうから、時代に取り残されてゐるわけでもないでせう。それに、長い間、将棋を指さないで、張り切つてゐるために、却つて元気が溢れてゐるのではないでせうか。私は、坂田さんは、可なり強いと信じてゐます」と、云ふのであつた。
 この説が当つてゐるか、どうかは、実際の勝負を見る以外はない。
(昭和十二年三月「話」話の塵)


 倉島君の出征

「東京日日」の将棋解説者として、知られてゐる倉島竹二郎君が出征した。同君は、慶応文科の出身で、小説など書いてゐたが、いつとなしに将棋記者になつてしまつた。六尺に近い体軀だから陸軍少尉の軍服を着けた姿は、堂々たるものだつた。性質も果敢だから、戦線に立てば、勇戦奮闘するだらう。たゞ、あまり身体が大きいので、敵兵から余計に狙はれはしないかと、友人は心配してゐる。
 召集令が来たとき、同僚と麻雀 マージヤン をやつてゐたが、少しも騒がず、残つてゐた北風 ぺいほんをすました さうだが、相手は召集令を受けた倉島君を気にして落ち着けないのに、倉島君は悠然とガメツクて大きな手をつけ、最後の北風 ぺいほん だけで、大勝したさうである。
(昭和十三年七月「話」話の塵)


 坂田三吉氏のこと

 この雑誌が出るまでには、坂田三吉氏の「名人戦」参加が確定発表されてゐるだらう。坂田三吉氏が、関西名人の位置を、かなぐり捨て、八段として名人戦に参加することは棋界近来の壮挙である。坂田氏を入れない名人戦は、何と云つても、完璧とは云へないと思ふ。坂田氏の名人を名乗つたことは、合法的ではなかつたかも知れないが、当時の実力は いうに、関東の棋界を圧伏してゐたと云つてもよいのである。少くとも関根前名人とは同等の棋位 きゐを持つてゐたと云つてもよいので、他年関東の将棋界に対し、一敵国であつたのだ。この人が、従来の行きがゝりを一擲して、名人戦に参加することは、日本棋界のためにも、坂田氏のためにも、名人戦のためにも、慶賀すべきことである。
 七十に近い老軀ではあるが、元気にハリ切つてゐるので大成会の各八段を迎へての健闘は、新聞将棋界の焦点となるであらう。
(昭和十三年七月「話」話の塵)





 関西名人坂田三吉氏が名人戦に参加したことは、既に発表されたが、坂田氏が僕の勧誘に応じて名人戦に参加したことは、近来の仕事であると思ふ。坂田氏は、過去に於て、たしかに名人を名乗つてもよい時代があつたのである。たゞ、名人位に対する王道が開かれてゐなかつたゝめ、強引に名人を名乗つた為、遂に長年の孤立となつたのである。が、孤立のまゝで、晩年を終らせることは、坂田氏のためにも、日本将棋界のためにも遺憾である。殊に、棋譜の極めて少い人だけに、このまゝ埋もれることは残念であらうし、また名人戦としても、坂田氏を除外したのでは、其処に一抹の翳影が残るわけである。今度の参加はその意味に於て、最も正当な手筋だと思つてゐる。六十九歳の老齢に拘はらず頗る元気だが、何と云つても多年盤面から遠ざかつてゐたことは、大きな不利である。最初の二、三局はそのために、不振かもしれないが、やがて坂田氏本来の面目を発揮して来るだらうと思ふ。
(昭和十三年七月)
話の屑籠





 坂田八段の名人戦参加について、坂田八段の現在の棋力を疑ふ人が多かつたが、今までの成績は一勝一敗で、十何年目の対局としては、好成績である。追々、実力を発揮すると思はれる。
(昭和十三年八月)
話の屑籠





 将棋大成会から、将棋に対して、功労のあつた太田正孝氏、石山賢吉氏、報知の生駒氏などに、感謝の意味で駒と盤面を贈る くはだてがあり、僕もその一人として、駒と盤面を貰つた。両方とも見事なものである。将棋が隆盛になつて、かう云ふ企が行はれるやうになつたことは、将棋界のために、欣ばしいことだと思つた。
(昭和十四年四月)
話の屑籠


 坂田三吉氏

 坂田三吉氏を、名人戦に参加させたのは、僕である だけにその成績には、関心を持つてゐたが、今度失格を免れたことは、嬉しいと思つてゐる。
 坂田氏は、実力に於いて、今の八段に劣るわけはなく、土居さんとの将棋なども、一手の落手のために、勝敗が転倒してゐるのだ。たゞ、二十年近く実戦に遠ざかつてゐるために、近代将棋の巧妙なる序盤作戦に通ぜず、立ち上つて組んだとき、既に不利の体勢になつてゐるのだ。しかしだん/\近代将棋に馴れたから、第二回にはもつとよい成績を上げるだらうと思つてゐる。
(昭和十四年八月「話」話の塵)


 将棋名人戦

 第一次の将棋名人戦の結果、土居さんは全勝で、花田八段が七敗一勝と云ふ成績で、失格した。
 前回に、木村名人と決勝戦をした花田八段が、この不覚を取つたことは、何人も意外とする所だらう。
 が、現在八段級の実力は、殆んど接近して、わづかな精神力、肉体力の相違が、勝負に影響するのである。花田八段なども、健康の不調に加え、負が込んで来ると、いよ/\勝てなくなつたので、実力が低下したわけではないだらう。
 また坂田三吉氏を、弱いと云ふやうに云ふ人もあるが、近代将棋の序盤戦に暗いためで、取り組んだ刹那、もう不利の体形になつてしまつてゐるのだ。第一回戦で、相当体験をしたから、第二回戦には、もつと、いゝ勝負をするであらう。
 近代将棋は、序盤の研究が積んでゐるから、序盤に少しでも、指し負けると、恢復の余地がないのである。
(昭和十四年十月「話」話の塵)


 坂田三吉

 坂田三吉の名人戦参加はいろ/\な意味で問題になり、その強弱論が、一時盛んであつた。第一期戦は、やつと二勝して、脱落を免かれたが、坂田老朽説に凱歌が上つたやうに見えた。が、第二期戦に入ると、やゝ怪我勝の気味ではあつたが萩原八段を破り、土居さんには負けたが、金八段に快勝し、金子八段には負けたが、今度又神田八段に勝つた。萩原神田は八段中錚々 さう/\たるものだ。この二人を倒せば、堂々たるもので、名人戦参加の意味が充分にあつたと云つてよく、自分も坂田の参加に肝煎りしてよかつたと思つた。坂田などは、軍人に比ぶれば、後備中の後備である。実戦に遠ざかること、二十年近く、近代将棋を知らずと云はれ、しかも七十を越した老人である。それがノコ/\と出て来て、神田や萩原を負かすことは、大手柄でその資性の強靭と、その全盛時代の棋力の充実とを想はせて、何人 なんぴとも喝采してもいゝことだと思ふ。それだのに、大成会公認と称する「将棋世界」の匿名欄などで、機会あるごとに坂田の悪口を云つてゐるなど、将棋界の偏狭を示してゐるやうで見苦しい。
 が、坂田は何と云つても、七十を越してゐる。近代将棋に追付くと同時に、老衰に追ひつかれてゐる。今、十年若かつたら、木村名人を向うに廻して、壮快なる名人位争奪戦をやるのは、きつた坂田であつたであらう。
(昭和十五年二月「話」話の塵)





 将棋名人戦に参加してゐた坂田老人が、今度病気のために隠退することになつた。これは本当の病気である。
 前期名人戦の後半期に全
*4八段と戦つて、五勝二敗の成績を挙げたことは、老人の冷水以上の成績であつた。大正年度に名人制が確立してゐたら、関根、坂田、土居と推移してゐる筈であつたのだ。自ら名人と名乗つたことも、その実力から云つては当然であつたのである。
(昭和十五年十月)
話の屑籠
*4 底本では“金”。編集中、金易二郎八段と混同したか。




底本:菊池寛全集 第二十四巻(1995 高松市菊池寛記念館)
底本:菊池寛全集 補巻(1999 武蔵野書房)
底本:菊池寛全集 補巻2(2002 武蔵野書房)
整形の仕方は
青空文庫を参考にしています


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