勝負を争ふ道には、二つある。技倆実力であらそふか、チャンスで争ふかの二つである。二つとも勝負事と云へるが、然し普通は後者の場合、即ち投機的性質あるものを、「勝負事」と呼んでゐるやうだ。
たゞ技倆実力の争ひにも、チャンスが働くごとく、外見チャンス
丈の勝負にも、また技倆実力の働くこと、
さいころを使つてのばくにちもなほ技倆の高下があるのでも知られる。
角力、剣術、柔術、将棋、囲碁、などは実力技倆の戦ひであるが、然れども時のはづみと云ふことあり、ふとした偶然に依つて勝敗を転ずることがある。殊に、野球、テニスなどは、無情の転々し易きへうきん者のボールを使ふことゆゑ、勝負を決定する要素の中、一、二割はチャンスを含むと云ひて可ならん。バットに触れる球がわづかなる
違にてヒットとなり、或はファウルとなること考へれば、チャンスが勝負を決すること往々ありと云ひても可ならん。
たゞチャンス丈に勝敗のかゝる場合は、
さいころを使つてのばくちの如く、花札を使ひてなす
おいちよかぶの如く、その勝敗頗る簡単にして殺伐、たゞ勝か敗かの一六勝負に全身の緊張をつなぐところに面白さありと云はゞ云ふべきも、相当発達せる理智と感情とを持てる者の、長く楽しむべき業にてはあらざるべし。
我々が楽しむべき勝負事は、その内に自身自身の計画と、実力と、予想力と、胆気と、その他あらゆる精神的機能を十二分に働し得るが如く、その勝負事そのものが、生活の縮図の如きものたるを要す。人生に於て、我々の予想が的中する欣び、計画が成就する欣び、実力が発揮せらるゝ欣びなどは、容易に得られない。それから人に対して、優越感を感ずることも、甚だむつかしい。
たゞ、勝負事に於いては、わづか一時間か二時間かの間に、自分の計画を立て、自分の実力を振ひ、胆気を出すなど、あらゆる精神活動が出来、またそれが生む効果を享楽することが出来るのであるから、勝負事が人生の一大慰安である所以である。
我々が、時々新聞の講談などをよむのは何故だらう。それは
あしこに現代と全く無交渉の世界が展開してゐるからだ。そこでは、久米の平内だとか、清水の次郎長などが、時代を超越して、活躍してゐるからである。そこでは、我々は実生活の労苦を悉く忘れることが出来るからである。
それと同じやうに、勝負事の世界も、また別世界である。将棋なら、その一局の裡に、新しい世界が拓かれ、新しい喜怒哀楽があるからである。どんな貧乏人でも、将棋を指して居れば手に金銀を沢山持つことが出来、ゆたかな気がするのである。そして、そのゆたかな気は、可なりリアルで、実生活の労苦を充分忘れるのに足るほどである。そして、実生活では、一度も人に優越を感じたことのない男が、町内で盤面では誰よりも偉くなつてゐるのである。
チャンス丈で争ふ勝負事が単調で殺伐であると同時に実力技倆ばかりで、戦ふものも、何となく息苦しくて、するどすぎていけないが、半分のチャンスと半分の実力とで戦ふものは面白い。
先年文士賭博云々で文壇の士の間に、八々が盛んであることが、抉摘されたが、勝負事として、風情のあるのは、花やトランプが一番であらう。あらゆる実力を発揮して然る後に天命を待つところが面白い。人生で冒険的企業をやるのと似てゐる。その遊びは、一つ一つの企業で、銘々の主義や方針や、性格や性情までが勝負の裡に反映して来る。そして、花の勝敗などが結局可なり深い人格的な力に依つて左右されて来ることが分るのである。一定の資本を擁し、ある事業をするのと、スケールの大小はあるけれども、結局成敗利鈍の依つて来るところが同じだとまでに思はれる位である。
英国人が、嘘の
つきつこをしたとき、「私は生涯賭をしたことがない」と云つた男が、一番巧妙なウソとしてほめられたが、それほど英国人は賭が好きである。そんな意味で、人は一六勝負が、すきである。まだるこい事をするよりも、一時に勝負を決し、それに依つて精神的緊張を味はうとする。特に、ダルな人生で、心を緊張させる少数のものの中では、勝負事は最大なものであると云つてもいゝだらう。
カキガラ町の米穀市場をめぐつて、合百師と云ふものがありそれが米相場に大影響をして居り、合百その物が、弄花よりもつと面白く、一度それに手を出すと生涯ぬけ切れないと云ふことを聞いたが、勝負事の面白さは、人心に宿る癌で、結局命をとられるまで、
除かないものかも知れない。
そんな意味で、勝負事は芸術と同じ位に、人の生活に喰ひ入つて居り、芸術よりは下品であるが、その重要さは同じ位であらう。人生から勝負事を取られるのと、芸術を取られるのとどちらがいゝかと、投票してみたら、必ずしも芸術派が勝つとはきまつてはゐないのだらう。そして、勝負事から得る面白さも、やつぱり芸術から来る美観と同じく、生活の実感でないところで似てゐる。
勝負事は、世の道学者達から屢々世務を荒廃するものとして排斥せられるが、然し実際生活で、経済的制限や社会的制限などで、抂屈されてゐる人間に取つては、勝負事の世界で活躍することが、せめてもの慰めではあるまいか。
学問でも技術でも、あるところへ行けば、人格なり精神の問題だが、勝負事もある程度以上へ行けば、精神の問題だ。幕府将棋所大橋宗桂が、将棋工夫の便としてかきつけた精神陶冶の心得書を抜いて見よう。
予象戯深望の余り万一斯くの如き心持にて其れを執行致さずば罰す可し、思慮の工夫書附畢
象戯箇條之次第
一、気の勝気の負と云ふこと、
業の
勝業の負と云ふこと、位詰めの勝位詰の負と云ふこと、熟未熟と云ふこと、気の強弱と云ふ事、
業の強弱と云ふ事、気の虚実と云ふ事、
業の虚実と云ふ事、強中の弱といふ事、弱中の強と云ふこと、先を取るといふ事、先を待つと云ふ事、先となり後となると云ふ事先
之中の先と云ふこと、先を指すと云ふ事、先
之後といふ事、後の先と云ふ事、
乱して之れを取るといふ事、手前を指すと云ふこと、見合せと云ふこと、見届けると云ふ事、見切ると云ふこと、始中終と云ふ事、気のそゝると云ふ事、気のいらつと云ふ事、気のおこたると云ふ事、拍子に乗るといふ事、位を見ると云ふ事、ねはきと云ふ事、早きと云ふ事、遅きと云ふ事、
麁相と云ふ事、芸にはまると云ふ事、なづむと云ふ事、あぐむと云ふ事、中推しと云ふ事、嗜みと云ふこと、思案と云ふ事、しよりと云ふ事、根なくなると云ふ事、見届けて詰めると云ふ事、推量の詰めと云ふ事、駒を進むと云ふこと、駒を退くと云ふこと、駒を引くといふ事、駒をよると云ふ事、駒を上げると云ふ事、駒を行くと云ふ事、駒をあてると云ふ事、囲ふといふ事、気の進むといふ事、気の急ぐと云ふ事、気のせわしきと云ふ事、気の静かと云ふこと、気の戻るといふ事、気のこると云ふ事、気の離ると云ふ事、気の移るといふ事、気のおこると云ふ事、気の練ると云ふこと、気のゆるむと云ふ事、気の軽重と云ふこと、気をうばはるゝと云ふ事、気のはやると云ふ事、気と
業と一致といふ事、業のひゝきと云ふ事、業の移ると云ふ事、
相人を恐ると云ふこと、
相人をつゝしむといふ事、
相人をあなどると云ふ事、芸を惜しむといふこと、負けを惜むといふ事、損の徳といふ事、徳の損と云ふ事、釣合と云ふ事、はりあひと云ふ事、あやに乗るといふ事、図に乗るといふ事、打替るといふ事、打棄てると云ふ事、両道と云ふ事、打寄せると云ふ事、突き寄せると云ふ事、両王手と云ふ事、駒をなると云ふ事、待駒と云ふこと、歩を切ると云ふこと、はねると云ふ事、手すきと云ふ事、指掛ると云ふこと、受けると云ふこと、受けとめると云ふ事、
指組といふ事、盤果
気充と云ふ事。
右百箇條は象戯工夫の便ともならんと予一心の楽みに任せ筆する者也
元禄十一寅年春三月吉日
大橋宗桂作之
勝負を争ふ場合に於けるあらゆるデリケートな心境をつくしてゐると云つてもいゝ。これに依つて心を練れば、凡ての競技勝負ごとに於ける心境の修業となるばかりでなく、人生に於けるあらゆる対人関係に於ても、得るところが多いであらう。
これを以て見るも、将棋の中に、処世観人世観の工夫がつめる如く、他のあらゆる勝負事の中にも、かうした契機はあるだらう。
勝負事をいやしむべからざる所以である。